The series 

Portrait

 - Inheritance and family - 

「 肖像画  - 継承と家族 - 」

 2004年から広島市立大学特定研究として始まったプロジェクトである「光の肖像」展にて制作した作品を紹介する。このプロジェクトはヒロシマの被爆体験の継承と絵画復権を命題とし、教員、学生、卒業生が被爆者、被爆二世、三世の肖像画を描き残すというプロジェクトである。過去に国内外で多くの展示を行い、現在117点(2016年時点)の肖像画が出来上がっている。

 

 私の父方祖父は原爆で亡くなり、祖母は被爆者であった。肖像No,10は祖母の肖像である。また、肖像No.101は叔母である。親戚や身内の事実を、このプロジェクトをきっかけに私自身が知るきっかけとなった。無関心の 割合が増加しつつある「原爆」という過去の歴史的出来事が、人ごとでなく自身においては進行形であることを知る。

 

 彼らが皆原爆で死んでいたら、今の私は存在しない。被爆後も精一杯生き残ってくれたおかげで「私」という存在があることに、先人への敬意や感謝を抱く。

 

 

 「光の肖像」プロジェクトでは、被爆体験はもちろんだが、被爆後どのように生きてこられたかということにも重点を置いている。生命のリレーのバトンをもらった私自身もある意味その後のひとつであり、原爆を通して自身における「生命のリレー」「流転」の具現として、プロジェクト作品とは別に自分、姉、その子供をモデルにした作品も制作している。それらもこの後ここに紹介する。


肖像No.10

 

 1914年(大正3)生。制作当時92歳。広島市東平塚町出身。漁師の家に二男七女の六女として育つ。

 32才の時に被爆。東平塚町の自宅にて、洗濯物を干し終わり、室内に入った瞬間に爆風に吹き飛ばされる。家屋は全壊し、家の下敷きになるが、奇跡的に大きな外傷なく自力で這い出た。両親とはぐれ大怪我をした近所の子供を抱えながら、比治山へ向けて避難。その後、島根県の親戚の家に疎開させていた子供達4人のもとへ向かい、そこでしばらく生活。消防士で被爆後も市内で救助活動を行っていた夫は、黒い雨にて被爆から一ヵ月後に殉職。

 その後、島根で知り合った男性と再婚。広島に移り住み、学校給食の仕事に従事しながら、「家族」というものを大切に、四人の子供を育て上げる。

 

 「当たり前のように思える平凡な生活がいかに幸福なことか」

 現在の私たちが見失いがちな根本を、身を持って語る目には、戦後をたくましく生きてきた力強さに満ちていた。多くの悲しみを乗り越え、現在は次男宅にて暖かな家庭に囲まれながら、静かに暮らしている。

 

「光の肖像」展2005


肖像No.9

 

 1927年(昭和2)生。広島県三次市出身。

救護看護養成学校年(17才)のときに被爆。学徒動員にて広島赤十字病院(広島市千田町)に勤務中、医療器具を多く保管している部屋で爆風に遭い、器具の下敷きとなり意識を失うが、昼過ぎに目覚めて自力で這い出る。自身も怪我をしていたが、10月に帰郷するまで、患者さんや怪我をした人の救命、たくさん運び込まれてくる死体の処置を行う。

 

 「足の動く人はみんな逃げていったが、看護婦は逃げることが出来ない。自分達の身が、危険にさらされても、救命という自分達の使命を果たした。」

 「あの時のヒロシマが、現在のようにこんなに復興するなんて夢みたいです。」とその表情には力強さとやさしさが滲み、たくましさに溢れていた。

 

 看護婦を定年後、第二の人生として身につけてきた剣舞の指導者となり、平和の舞なども講演している。また、大学や短大などで、看護に関する講義も行い、幅広く活動している。

 

「光の肖像」展2005


肖像No.33

 

 1929年(昭和4)生。広島市西区三滝町出身。日本銀行広島支店に勤める父、農業や家事を行う母、祖父母、妹の六人家族で暮らしていた。

 

 広島県立第一高等女子学校4年生(17歳)の時に被爆。当時は学徒動員であったが、6日は第二司令部へ行く配置換えのため、学校はお休みで、三滝町の自宅にいた。

家は壊れたものの、自宅を含む一筋の数件の家が奇跡的に形を残した。市内へ救助にいく甲山町からの青年団や近所の人々が、残った家屋の片付けを手伝ってくれた。足に怪我をしたため、自宅にて静養する。復興のための団体、家を失った近所の人々や、行くところを失った人々などが家に出入りし、しばらくは多くの人々と生活をともにした。多くの人々を助けたその実家は、形を変えて今も尚、その場所で一家族の歴史を刻み続けている。

 

 戦後は、県庁に勤めていた主人と結婚。一男一女をもうけた。現在は4人の孫にも恵まれ、幸せな毎日を過ごしている。

 「二度とあってほしくない、ただそれだけです。」

やさしさに満ちた微笑は一瞬消え、今に対する想いを俯(うつむ)きながら一言静かに語る。

 

「光の肖像」展2006


肖像No.65

 

 1942年(昭和17)生。制作当時66歳。広島市中区河原町出身。戦中、疎開先の広島市西区己斐上の祖父母宅にて、両親、兄二人の七人家族の中で育つ。

 

 自宅で3歳の時に被爆。母親の洗濯にポンプを押して水を出す手伝いをしている時だった。母がすぐに抱きかかえて室内に入り護ってくれた。髭を剃っていた祖父は片目に鏡のガラスが刺さり失明。父は勤務先の市役所の地下で、長兄は広島工業専門学校で、広島第二中学校生だった次兄は東練兵場で被爆したが、家族全員運良く助かった。父が血まみれで、次兄は大やけどをして帰ってきたのを覚えている。

 自宅は無事だった為、市中から親戚知人が沢山逃げて来た。3歳だったため、人が沢山来るのがうれしかった。しかし、その中で多くの人が亡くなった事、池の大きい鯉が黒い雨で全部死んで浮いていた事を、子供心に強烈に記憶する。

 

 1965年(昭和40)に結婚、一男二女をもうける。結婚時には1㎞圏内の被爆者にしか手帳は配られておらず、1966年(昭和41)に2㎞圏内の被爆者にも手帳が配布された。申請時、被爆していたことを夫や義母が知り、驚かれたのにとてもショックを受ける。 「戦後、原爆をうけたという理由で、結婚などの時に差別されて悲しい思いをした人たちがいます。無知からくる中傷や噂で、被爆の傷とは別の、目に見えない心の傷を受けたことを本人たちは語りたがりません。これはお金に代えられる問題ではないのです」「今の世の中は欲を持ち過ぎています。持っている欲を一歩抑えてみると、平和への一歩が見えてくるのでは・・・」

 現在は健康で夫と二人暮らし。趣味は茶道、旅行。平和の為に、つらい記憶などを語り継ぐ活動もしている。

 

「光の肖像」展2008


肖像No.101

 

  1939年(昭和14)生。制作当時76歳。広島市東平塚町出身。消防士の家に三男一女の長女として育つ。

 6歳の時に入市被曝。当時は子供達だけで島根に疎開していたが、原爆投下後、父と叔母と共に、安否不明の身内捜しと病院に行く為に広島市内へ入り被曝。腎臓を患っていた為、無医村の疎開先では治療できず、行きつけの医院に行く為に同行したが、先生はいなかった。また同時に、第一陸軍病院に勤めていた叔母も方々探したが、遺体も骨も見つからないまま現在に至る。

 

 8月6日、自宅にいた母は東平塚町で、父は流川町で被爆した。母(No.10)は生き残り、その後島根の子供の所へ向かう。消防士の父は、丁度夜勤明けの消防署から帰宅中に背中に大火傷を負った。しかし被爆直後は動ける状態で、すぐに救助活動にあたり、暫く市内に滞在していた。原爆時での多くの人命救助にて何日か後に賞を貰ったが、虚しくも、被爆から25日後の831日に原爆症にて殉職。蛆がわき、全身が腐っていきながら亡くなっていったのを覚えている。

 

 戦後、平塚町の家は原爆で跡形も無くなったが、疎開先から広島市に戻る。舟入小学校、神崎小学校と復興とともに市内で学校を転々としたが、遊んでいる時に運動場の土を少し擦ると無数の骨が出てきたのを覚えている。

「突然、家族を奪い、人の幸せを変えた戦争はやっぱり嫌ですね。」

 24歳の時に結婚し、二女に恵まれる。農林水産振興センターに30年近く勤務し、現在は趣味の園芸と音楽鑑賞を楽しみながら夫とニ人暮らし。   


 肖像No.116

 

 1927年(昭和2)生。制作当時87歳。安佐郡三篠町(広島市西区楠木町)出身。八人姉妹の六女として育つ。父は早くに亡くなり、母が女手一つで育ててくれた。

 

 17歳の時に被爆。中国新聞社に出勤のため自宅玄関で靴を履いている時に被爆。

 光った瞬間、近くにいた甥を抱えて自作の小さな防空壕へ逃げようとしたが、しゃがみ込んだ瞬間にトタン屋根の下敷きとなる。爆風で窓のガラス破片が降って来たが、トタン板が身を守る格好となった。

 室内にいた者は火傷がなかったが、外にいた長女と赤子は大火傷を負った。外に出ると裏の練炭屋から火が出ており、何が起きたか分からぬまま大芝公園へ避難。一晩過ぎると一面焼け野原で、住んでいた家も姿形が無かった。夜は土手で眠り、夏でも夜中は寒かった。妊娠していた四女の姉を探しに行く途中に見た景色は、死んで横たわる人々「水をくれ」とうめく人ばかりだった。熱さのため水を求め、畑の肥溜めの中にまで多くの死体が浮かんでいたことを覚えている。その後大芝小学校近くで、家を借りることが出来た。夜になると小学校で山のように積んである死体が焼かれ、その臭いが凄かった。四女の夫は未だ行方不明でその舅は一週間後に亡くなったため、大芝小学校へ焼きに行った。大量の死体が焼かれるのを見て、義兄のような無縁仏が沢山あることを今でも悲しく思う。

 

 戦後は65歳まで中国新聞社で50年勤務。27歳で結婚し、二女を授かる。今では五人の孫、一人のひ孫がいる。旅先や、俳句で日常を詠うことを7083歳まで趣味としていた。

 

「戦争は嫌じゃね。戦争はもういらない」